足利家の行方

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ネット上で歴史マニアや歴史オタクが
『矢島八千子や矢島重知って足利義昭の孫なの????』と質疑応答している中、
私の御先祖様研究は随時進行中、足利家の行方をまたまた探ってみました。

室町幕府最後の将軍、第15代足利義昭の子供らは
滋賀県野洲の矢島郷より矢島の姓を名乗り
足利義昭の息子矢島秀行の子孫として密かに繁栄していきます。
将軍家の末裔ならでは子孫繁栄は当然重要視されていたであろうが、
実際にその他の兄弟たちは他の将軍家に仕えるなり、島流しに遭うなりし、
島津、永山、坂本などなど、他姓を名乗る破目となりました。

私の知る限りでは唯一続いているのが矢島秀行の子孫たちで
その息子が矢島重成、娘があの柳川城立花宗茂の側室であった
絶妙な京美人矢島八千子です。

矢島重成の息子が矢島重知で、その娘『慧照比丘』は
曽祖母に当たる『恵照院』(矢島秀行の妻)の菩提を弔う為に開祖しました。
1742年、『慧照比丘』が死去した後は
本山の本国寺の一字を取って現在の寺号本長寺に改名、
恵照院殿妙成日芳尼が就任しました。

そしてこの『慧照比丘』は京都生まれの今川直房の元へ嫁ぎます。
因みに矢島秀行の妻『恵照院』は菊亭(今出川)晴季の孫、
菊亭公彦左大臣の曾孫に当たります。
菊亭(今出川)晴季は中々のやり手で
実娘を豊臣秀吉の姉の子豊臣秀次の所へ嫁がせる程でした。

柳川城立花宗茂は自身が立花道雪の養子、
銀千代をはじめとする3人の嫁がいながらにして子供は授かりませんでした。
しかしながら、実父高橋紹運の息子立花直次(立花宗茂の弟)が後継し、
立花壱岐に至るまで矢島は柳川城や立花家と深い関わりを持っていたよう、
江戸時代に足利家を名乗る者は一人もおりませんでしたが、
足利家はその後矢島を名乗り繁栄していったのだと強く信じております。

三条河原における39人の打ち首、豊臣秀次事件ひとつ取ってみても
家系図を追う度、自分の御先祖様たちと京都の繋がりに驚かされる次第ですが、
これを生き抜いた人達も実は沢山いるのです。

この事件は豊臣秀頼の誕生によって豊臣秀次が邪魔になった豊臣秀吉
豊臣秀次謀反説をでっち上げたように思われがちですが、
『隆精院』をはじめ処刑を逃れた人も多くおりました。
小督の局の娘お菊、公家の梅小路氏に嫁いだ娘の二人、
豊臣秀次の母智子(日秀)、豊臣秀次正室池田恒興の娘若御前などなど、
これぞこの世の七不思議!!!

しかし、実父豊臣秀次豊臣秀吉によって高野山切腹
実母一の台は三条河原で処刑とは大層な悲劇、
その後、実娘『隆精院』は仏門に入って両親の菩提を弔っています。
ともあれ実母の非業の死を見た『隆精院』の悲しみは想像を絶するものだったようです。

今日も一つお利口さんになりましたとさ。
次回は是非『隆精院』及び、豊臣秀次の墓地を訪問せねば!!!
めでたし、めでたし!!!

裕美・ルミィヤンツェヴァ




チャッキー 2008年04月08日 23:12 豊臣秀次は、ドラマなどで伝えられている人物像と実際の人物像との乖離が激しい人物の一人です。
しょーもないおバカで人殺しみたいにドラマは作られていますが、実際はかなり出来る人物だったのではないかと思います。
長久手の戦いでは下手を打ちましたが、それ以外の戦いでは軍功をあげています。実は思慮深い教養人だったようです。
育ての親である北政所の薫陶が伺えますな。

でわ、誰が殺したのかということになりますが…
一つは近江派と尾張派の対立軸。秀次は尾張派の領袖ですから。
もう一つは…これはあくまで推論。
徳川家康が秀吉を唆した…考えすぎですかねえ


ragtimema 2008年04月08日 23:27 チャッキーさまお詳しいのですね。そうそう誰が殺したかが問題です。でも歴史研究家曰く、豊臣秀次豊臣秀吉によって高野山切腹だそう。豊臣秀次はまぁ、教養ある良き戦士だったのでしょうが、立場的に何かと周囲から恨まれやすかったかもしれませんね。

裕美・ルミィヤンツェヴァ
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