日本最古のピアノにびっくり!!!

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自分の人生にはいつもピアノが付き物。
幼少のときからずっとずっと奏でていたピアノ。
ピアノでは挫折したものの、
ピアノと自分は無論切り離すことなどできなかった。

そんな謎を自分と大変つながりの深い長崎の地で追ってみた。
すると、驚くことに日本最古のピアノは、
ドイツよりオランダ経由で長崎に運び込まれ、
現在も山口県萩市にある熊谷美術館にあるということがわかった。

この美術館には萩藩御用商人であった熊谷家が
代々集めてきた美術品や文書が展示されており、
「ピアノ」は幅広く事業を展開し、長崎にも出店を持っていた
「豪商熊谷」、4代五右衛門義比が
歴史的にも文化的にも価値ある物として自負しているそうだ。
五右衛門は毛利藩所帯型御用達商人であり、
歴代熊谷家当主の中でも特に文化に明るかったらしい。

当時入国禁止を言い渡されていたドイツ貴族、シーボルト
当時唯一入国を許可されていたオランダ人になりすまして、
自分が愛用していたピアノを日本に持ち運んだのがそもそもことの始まり。

五右衛門は、出島に出入りする蘭学者達のスポンサー的役目もしており、
とりわけ、同じ長州出身の岡研介という蘭学者に多くの援助を行っていた。岡研介はシーボルト門下のうち特にオランダ語会話に秀でた人物で、
シーボルトに面会する者は皆、研介の世話になったという。

実はこのピアノも、研介を通じて
シーボルトから五右衛門の手に渡った物だった。
そして、楽器が出島から萩へ向かった直後に、
かの有名な「シーボルト事件」が起きた。

熊谷家ではそれ以後、ピアノを人目に触れないよう、
また一切口外しないようにしていたと伝えられている。
1955年になって、再び当家でもこの楽器に光が当てられることとなり、
様々な調査が行われるようになったのだ。

しかしながら、国内ではメディアを通して
このピアノを知る人も近年増えたが、
オランダでは日蘭交渉史専門家でさえ、このピアノのことを知らない。

1999年、これをシーボルトが使用していた19世紀当時の姿に戻すようにと
オランダ人フォルテ・ピアノ修復家を萩に招き、修復作業が行われ、
日蘭交流400周年記念事業「出島の頃」というプロジェクトを中心に
シーボルトのピアノ」に対する人々の興味も相当深まった。

このピアノが、出島で使用された様々な楽器のうちでも、
唯一現存する遺産であることから、
長崎の歴史を学ぶ上でもかなりの興味をそそられる。

五右衛門は文化愛好者であり、蘭学にも関心が深く、
シーボルトとは長崎で知り合ったらしい。
そして、彼は多数の日本工芸品をシーボルトに贈り、
そのお返しとしてシーボルト愛用のピアノを頂戴したそうだ。
それは正に彼が日本を去るときの出来事でした。

そのときの受領書には当時のピアノの総称、
ポルトピアン(Fortepiano)」とある。
このイギリス製ピアノは、大型のフリュ―ゲルと区別して、
ターフェル・ピアノ、或いはスクエア・ピアノと呼ばれていたもので、
その共鳴版には、シーボルト直筆で次のように書かれている。
「Tot gedachtenins aan mijnen vriend Koemaya 1828 」。
(わが友熊谷への思い出に)

現在、「シーボルトのピアノ」として大切に保管されているこのピアノは
驚くことに未だ演奏可能で、イベントの際には
シーボルトが弾いていた当時と変わらぬ美しい音色を生み出す。

現代ピアノは、総鉄フレーム、鋼鉄線、交差弦、
ダブル・アクションが典型とされるが、
シーボルトのピアノ」は、木製フレーム、鉄と真鍮の弦、
平行の張り方、シングル・アクションが特徴である。

現代ピアノの開発は、このピアノ以後の19世紀中頃に急速に行われ、
1822年にエラールがダブル・アクションを完成、
1835年頃には鋼鉄線が作られるようになった。
1840〜50年代にはアメリカのピアノ産業界で
交差弦と総鉄フレームの開発が進み、
明治維新の頃(19世紀後)、一般化し定着した。

シーボルトのピアノ」は、ロンドン、
William Rolfe & Sons のスクエア・ピアノで
音域は5オクターブ半、横幅168?、奥行き62?。
当時の手紙には「三人舁位」
(3人で担いで運べるくらい)と記されている。

製造年代については1806年頃という説もあるが、実はもう少し新しい。
製造番号が打たれていないので明確なことは言えないが、
1933年にイギリスで出版された Rosamond E.M.Harding の本によれば 、
William Rolfe & Sons の社名は1814年以後からで、
それ以前は Sons がなくて William Rolfe だけであったとされている。

従って、シーボルト来日が1823年であったことから、
このピアノの製造年代は1814年〜1823年の間ということになる。
おそらく、シーボルトが1822年にヨーロッパを出発する直前に
購入した物なのであろう。

1796年2月17日から1866年10月18日を生き抜いた
ドイツの医師、博物学者であったシーボルトの本名は
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(Philipp Franz von Siebold)。

正式名フォン・シーボルトからもわかるように、
彼は貴族であり、祖父の代に称号を与えられたらしい。
当時、楽器演奏が、上流階級教養のひとつとされていたことを思えば、
シーボルトが幼少から音楽に親しんでいたということは
そう不思議ではない。
また、出島に赴くことが決まったとき、
自分の持ち物の中にピアノを入れようと決心したことも
難なく理解できる。

父はヨハン・ゲオルク・クリストーフ・フォン・シーボルト